Amazonプライム・ビデオにて配信されている恋愛リアリティ番組『バチェラー・ジャパン』(The Bachelor Japan)&『バチェロレッテ・ジャパン』(The Bachelorette Japan)
その司会進行役をつとめている坂東工さん。バチェラーよりも人気があるのでは?と思わせるほど素敵な方ですが、その生い立ちが壮絶だと話題になっています。
幼少期から映画『硫黄島からの手紙』にキャスティングされるまで。
そして日本に帰国後、芸術家として華麗なる転身を遂げるまでの波乱万丈な人生を調べてみました。
坂東工は何者?壮絶な生い立ち
坂東工さんは、10歳から一人暮らしをするなど、幼いころから苦労されていたようです。
徳島で生まれ、すぐに東京へ引っ越した坂東さんでしたが、5歳まで渋谷で暮らし、その後は横浜に行きまた東京に戻ったりと、1〜2年住んでは引っ越しを繰り返す生活をしていたそうです。
幼少期
9歳で父親から夜逃げ
子供の頃は両親の仲が良くなく、母親と兄・姉、坂東さんの3人暮らし。
会社を首になった父親は、お酒におぼれ暴力をふるうようになり、
父親が不在のときにトラックを呼び、近所の主婦らに手伝ってもらい引っ越し。
その後は父親とのかかわりがなくなり、父親が亡くなった時に初めてコロムビア・レコードで広告マンをしていたことを知ったそうです。
坂東さんは、当時の父親のことをブログで話されています。
「自分のこどもを餓鬼と呼ぶ父親、兄の背に隠れながら罵倒を続ける母親、震えながら立ち向かおうとする兄、2段ベッドの上からやめてよと叫ぶ姉、布団をかぶりながら祈る僕。
どれくらいそんな夜が続いたのだろう。僕はいつからか祈るのをやめた。両親がどうとか、これからのこととか、なんだか面倒くさいゲームのように思えた。いつ終わるとも知らないこの時が、ただただ嫌だった。」
引用元:坂東工オフィシャルブログ Powered by Ameba (ameblo.jp)
察するに余りある過酷な日々だったのでしょうね。
両親が離婚し、坂東さんは母親に引き取られます。
母親は元アナウンサー(坂東さんの出産を機に退職)で、アナウンス塾などをしていたそうです。
10歳からひとり暮らし
6歳年上の兄は、大学に進学し一人暮らし。
3歳年上の姉は、アメリカボストンへ留学。
姉が留学した頃、母親は大阪へ引っ越し。
坂東さんは東京に本社がある母親の会社の社宅での一人暮らし。
仕送りは3万円 (銀行口座に毎月振り込まれる)
銀行に行ってお金を引き出したくても、10歳の子供なのでキャッシュカードを使ってお金を引き出すことが出来なかったそうです。
小学生でバイト生活
やっていたバイトは…。
- 新聞配達
- 八百屋の仕出し
- 海の家の設営
- ホチキス止め
- 皿洗い
- 雑用
10歳頃からずっと働いていたという坂東さん。
食事は、給食まで何も食べず、夜はコンビニやお惣菜屋で買って食べてという生活。
この生活を14・15歳の頃までやっていたというから驚きです。
学生時代
中学時代
道場で空手を習い始める。
深夜にアルバイト
進路は全て自分で決めた。
幼い頃からなんでも一人でやっていたんですね。
高校時代
高校は2回転校
学校へ行くよりも空手をやっていた。
大学時代(日本大学芸術学部)
大学3・4年生では、自分で生活費や学費を稼いでいた。
日本大学芸術学部の志望理由:親代わりで面倒を見てくれた友人の父親が、芸能・芸術の世界を見せてくれたのがきっかけ。
やはり芸術的才能がある人はその世界に導かれるのでしょうか。
起業
21歳の時に起業しますが、すぐに倒産。
学ぶことが無かったという大学にはほとんど通えていませんでした。
「経歴抹消したいくらいだ。」と坂東さんは話しています。
大学に行かずに坂東さんは、課外活動(自己啓発トレーニングのサポート)で、
20-50代までがかかわるアシスタントトレーナーをしていました。
坂東さんは友人の紹介で、自分もこのトレーニングプログラムを受けていたそうです。
自分のハードな生い立ちを浄化する意味でやっていたらはまってしまい、3年間(19-21歳)やっていたそうです。
坂東工の波乱万丈な人生
渡米
19歳 初めてアメリカのニューオリンズ・ニューヨークを訪れる
ニューヨークで『The Fantasticks』のオフ・ブロードウェイを見て、とてつもない衝撃を受けた坂東さんは、いつか住んでみたいと思うようになります。
海外生活
2000年 日本大学芸術学部を卒業後、渡米
2年間、ネイティブアメリカンと一緒に生活をしたり、北米を車で巡りつつ、採掘や狩猟をし、ゼロイチで物を作ることを体験。
1年半で16万キロの旅
バックパッカーをして目的なくどこへでも行く旅をしていたという坂東さん。
その後の旅も含めると ルート66を3往復 もしていたそうです。
命の危険を感じることが何度もあったとか。
暴漢に襲われたり、銃で撃たれたり。コヨーテに囲まれたり、グリズリーとの対峙もあったそうです。
なかなかできない経験ですよね。
1年半もアメリカを転々とし、楽しすぎて本当に満たされた毎日を過ごしていた坂東さん。
ライター志望でしたが、日々楽し過ぎて文章は1行も書かず、日本のコミュニティーや日本の居酒屋へ行き、日本の友達と遊び、英語も全く覚えなかったそうです。
そんな暮らしをしながらサンフランシスコに流れ着きます。
恋人
坂東さんには、旅に出るまえに別れた元ダンサーの恋人がいました。
渡米して1年半、ずっと気になっていた彼女に電話をかけました。
すると衝撃の事実が判明します。彼女は亡くなっていました。
彼女は強烈なエネルギーを持っている人で、本当に命を燃やすように踊るダンサーでした。
彼女の存在は、坂東さんの人生に大きな影響を与えました。
坂東さんが自分の幅をひろげるために旅にでようと決意をした時、彼女は「一緒に行く。」と言いました。
ですが、すべての準備を整え、明日から旅に出るという日に彼女は突然、「日本へ帰る。」と言い出したのです。
突然の出来事に、驚きと意味がわからなかった坂東さんでしたが、どうしても旅に出たかったため、「僕は行く。」と言い、ひとりで旅に出ました。
彼女は病気でした。
1年半前、旅に出るその日に彼女が突然、自分の前を去ったのはなぜか? 坂東さんは考え続けました。
「彼女は自分の病気のせいで僕の夢をこわしたくなかったからなのか?でも本当のことは もう、どうあがいてもわからない。」
「いろんな思いで頭の中がグチャグチャになりなんとか生かされていた感じだった。」と坂東さん。
廃人同様だったそうです。
そんな時、掲示板に演劇学校の生徒募集の張り紙をみつけます。
体を動かさないとダメになると思った坂東さんは行動に移します。
芝居
26歳から30歳まで活動
CM・ボイスオーバーの仕事をし、オーディションは10回中4.5回は取れていたそうです。
2002年 サンフランシスコのアメリカンコンサバトリーシアターにて演技を学ぶ
1日14時間ほど、寝ている間以外は勉強し、超真面目にやったという坂東さんは、
演劇学校をトップで合格。
2003年 ニューヨークにてエージェントと契約
サンフランシスコで1年半勉強後、ニューヨークへ戻りエージェントと契約。
オーディションの日々を過ごす。
初めてギャラをもらったのは26歳。
日本の居酒屋で夕方5時から朝の5時まで12時間、週4-5日働き、
学費や歯の矯正、アーティスト写真も自分で撮ったそうです。
パフォーマンス集団を立ち上げ、東海岸各地で公演(2003年)
ダンスカンパニーを作ろうと思ったのは、付き合っていた元彼女へのオマージュ。
ニューヨークに戻り、「亡くなってしまった彼女に届く表現をするにはどうしたらいいか?」とずっと考えていくなかで、
「彼女がダンスやパフォーマンスが好きだったから、僕もやってみよう。」
「自分はダンスはできないが、彼女が出来なかったことを自分の体に宿してやってみよう。」と思い3年ほど活動。
ビート・ジェネレーションといった、70年代のアメリカ文学が大好きだった坂東さん。
旅に出て文章構成を考えず、ジャズのように即興的に旅の出来事を書くロードノベルのようなことをやっていました。
2005年 映画『ディパーテッド』に出演
マーティン・スコセッシ監督、映画『ディパーテッド』レオナルドディカプリオ主演にて、Chinese Triadで初めてハリウッド映画に出演。
ほんの一瞬の出演だったそうです。
さらなる決断
アメリカで活動をしていても、エージェントからくる仕事はCM・ラーメン・寿司・侍の仕事ばかり。
「自分のポスターが街中に貼られていても、誰も自分の事を知らない。CMの役がいくらとれても自分が使い捨てされてしまう。」
その状況を変えなければいけないと思った坂東さんは、さらなる決断をします。
当時、カンパニー維持のために年間1200万円かかっていたものを俳優の仕事で補填していましたが、それを全部やめてしまいます。
次に来るものにかけよう!と思っていたとき、そこに舞い込んだのが、映画『硫黄島からの手紙』のオーディションでした。
映画『硫黄島からの手紙』オーディション
「お金を稼ぐというのは二の次、いかに命を燃やして表現していくかが目的だった。」という坂東さん。
これまでに受けたオーディションでは、9回連続で受かっていたそうです。
その秘訣は ”ブラフでもなんでもいいから「あぁ、それならやれますよ。」と言って前に出ていく度胸” だと坂東さん。
ヒップホップのダンスができるかといわれれば「やれますよ。」とハッタリをかまし、帰ってすぐ練習するのだそうです。
坂東さんは2年間アジア人でトップだったそうです。そんな坂東さんがチャンスを掴みます。
2005年 映画『硫黄島からの手紙』谷田大尉役に抜擢
クリントイーストウッド監督、映画『硫黄島からの手紙』にて、メインキャスト・谷田大尉役を一般オーディションから配役されます。
谷田陸軍大尉は、二宮和也さんが演じる西郷が所属する部隊の中隊長。敗戦が濃厚となる中での硫黄島の激戦下で、部下に自決を強いて自らも死を選ぶという壮絶なキャラクター
映画『硫黄島からの手紙』のオーディションは、最初は200人。次は50人、その次は3人となり、最後は坂東さんだけでオーディションを受けたそうです。
言語障害
坂東さんは、映画『硫黄島からの手紙』出演後、言語障害になってしまいます。
映画『硫黄島からの手紙』でのラストシーン。
「自決するとき色々なものが見えてしまい命の音がプツンと切れた。」と坂東さん。
そこから5年間、言語障害で仕事もなくなり、坂東さんは日本へ帰国します。
日本帰国
2007年 日本に帰国(30歳)
唯一とってくれた日本の事務所に入社しますが、入ってくる仕事は “夫A” や「先生」と言うセリフだけ。
そこから3年(30-33歳)お酒におぼれて現実逃避の日々をおくります。
芸術家への道
中目黒の川沿いのギャラリーから坂東さんの芸術家への道が開かれます。
運命の出会い
偶然入ったギャラリーのオーナーに、坂東さんが身に着けていた自分が作った革の小物を気に入られ、アーティストとして参加することに。
アメリカの革で作った坂東さんの作品は、渋谷の西武デパートにならび、10個全て1週間で売り切れました。
その後、オーナーにさそわれ開催した個展で、黒澤和子さん(黒澤明の娘)に出会い、衣装の依頼を受けることに。
当時、衣装の作り方が分からなかった坂東さんは、YouTubeを見ながら作ったそうです。
凄いですよね。作ったことのない衣装の制作依頼を引き受けてしまうなんて。
2011年 芸術活動を始める
初個展作『生きる』を制作し、川崎市美術展の奨励賞を受賞します。
この作品を完成後、言語障害が治ったそうです。
芸術家としての活動・経歴
アメリカ在住中に自ら狩猟・採掘したレザーやストーンを使い、2011年よりアーティスト活動として作品制作を始める。その後映画やNHK大河ドラマの衣装制作を担当。確かな生きる実感を通して作品を生み出すことに情熱を注いでいる。
経歴
2014年 中東など世界を巡る
2015年 衣装デザイナー黒澤和子から映画『真田十勇士』の衣装制作を依頼される
2017年度アジアンフィルムアワード衣装賞に同映画でノミネートされる。
2016年 映画『忍びの国』で鈴木亮平が演じた下山伝兵衛の衣装を制作
2017年 Amazonプライムにて『バチェラー・ジャパン』の司会進行役を担当
2016年10月ごろ知り合いからオファーがあったそうです。
2018年 NHK大河ドラマ『西郷どん』で渡辺謙が演じた島津斉彬の衣装を制作
2018年12月 株式会社MORIYAを設立 CEOに就任
2019年6月 オンラインギャラリーiiwiiを6月に開設
7月 iiwii展をニューヨークで開催
2019年 個展『つながるピース PEACE&PIECE』を開催
Creema Springsのクラウドファンディングでは開始45分で絵画25枚が売り切れ、追加された25枚の絵も当日に完売になる。
2020年 Amazonプライムにて『バチェロレッテ・ジャパン』の司会進行役を担当
2021年4月 自身初となる壁画を横浜駅地下街にて制作
2022年 株式会社富士通の新社屋に17mの壁画を制作
2022年 TBSラジオにて初冠番組「坂東工のOpen your Art」がオンエア
坂東工 公式サイト「Takumi bando official website」
坂東工 公式ブログ「takumi bando official blog」
プロフィール
- 名前 坂東工(ばんどうたくみ)
- 生年月日 1977年7月25日 46歳(2023年7月現在)
- 2017年から『バチェラー・ジャパン』の司会進行役を担当
- 俳優やアーティストとしても活躍
現在、人や場所、物のエネルギーを感じとり、絵画として表現するオーラアートが注目を集めている。
「あなたのオーラを描きます」という絵画をセッション形式で制作し、月に5〜10枚の絵画を提供している。
まとめ
坂東さんのテレビでの姿を拝見していると、これほどまでに壮絶な人生を歩まれてきたとは、とても想像ができませんでした。
帰国後の芸術家としての活動、作品もすばらしく、本当にすごい方だと思いました。
本当に坂東さんがバチェラーでもおかしくないですよね。いつか坂東さんがバチェラーとして登場して欲しい。と思ってしまうのは私だけでしょうか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。